モラトリアムとは? 〜日本でのモラトリアムは、ただの現実逃避〜
どーも!青空コーヒーです!
みなさんは、自分探しの旅の途中ですか?
僕は、そうですね。自分探し中です。
このブログも、自分がわからなくなった自分のために、自分を理解するためのブログとしていますからね。
今回はこのモラトリアムについて考えていこうと思います。
テーマは、
「モラトリアムとは? 〜日本のモラトリアムは、ただの現実逃避〜」
です!
目次
モラトリアムとは?
まずは語源からです。
モラトリアムという言葉は、ラテン語で遅延を意味する「mora」、その動詞の「morari」から来ているようです。
なので、根源は「遅れ」という意味で、これは現在のモラトリアムにも通じます。
もともとは法律で使われる用語だったモラトリアム。
「戦争や天災などの非常時に金融機関で生じる混乱を防ぐため、政府が債務債権の決算を一時的に停止、猶予する期間を与えること」
だそうです。すみません出典忘れちゃいましたが引用です。
まぁつまりは、カッコよくいうと猶予期間が最適な言葉です。
この猶予期間という言葉を心理的に用いたのが、心理社会的モラトリアムと呼ばれるもので、一般的なモラトリアムはこちらです。
簡単にまとめると、大人になる前の必須でかつ社会から許容された猶予期間といえばよろしいでしょうか。
大人になる前、というのが重要で、やはり高校生や大学生などに適用される言葉だと思います。
社会人として旅立つ前に、自分の人生や生き甲斐、働くことの意義を求めて、それを見つけるという準備期間という感じです。
でもその一方で、自分というものを確立できずに、無気力になり、だんだんと自分の人生に無責任・無関心になる、という消極的な期間でもあります。
「何者」という本もしくは映画は、かなりヒットしましたよね。
就活生に焦点を当てて、モラトリアムについて見事に描かれた作品です。
この何者においても、明確な答えというのはありません。
モラトリアムの時期に自分が何者かという答えは見つけられないからです。
あくまでも、準備期間というのがミソです。
とにかく、アイデンティティの形成という意味で、モラトリアムは非常に大切な期間なのです。
気になる方は、見てみる価値は十分にあると思います。
モラトリアムの特徴
それでは、モラトリアムにある人の具体的な特徴を3つの無でまとめてみます。
無気力
まずは無気力状態。
最初は、誰でもやる気はあるんです。
希望に満ち満ち溢れた、明るい未来を想像しています。
しかし、時間が経つにつれて、現実という壁が目の前に立ちはだかります。
こうして、希望が絶望に変わり、やる気が削がれ、無気力になってきます。
なので、無気力がモラトリアムの第一段階です。
無気力になると、自分の中からも、外からの刺激にも、なににも反応しなくなります。
そして、ひどくなると鬱状態になります。
無関心
無気力になり、やる気がなくなると、いろんなことに無関心になります。
興味をもったところで、
どーせ俺なんて、
私には無理だよ、
という状態になるため、興味という内から外への動機がまったくなくなります。
そうなると、自分という現状のぬるま湯状態に甘んじるようになります。
これでは、新しいことが舞い込んでこなくなります。
でも、本当はこのままじゃダメだ!と思っている理性的な自分がいるのも事実です。
なので、無関心であることを不安に思うようになってきます。
特に友人関係とか、社会に適合するという点で不安になる気持ちが大きくなります。
そこで出てくるのが、自己防衛としての無責任です。
無責任
僕のブログの中ではよく、現実逃避の結果として無責任、という流れがあります。
このモラトリアムも、まさにそんな感じです。
現実の壁にぶち当たると、なんとなく鬱になり、興味がなくなり、でもこのままだとダメだと思うようになります。
そうなると、自分はこんなんじゃない、という自己正当化をすることで、理性を納得させようとします。
ありのままの自分を認めることができず、
まだ本気を出していないだけだ
本当はもっとできる
周りがいけないんだ
と責任転嫁するようになります。
あらゆることに対して当事者意識が薄れ、周囲から信用がなくなるために友好関係が気づけなくなり、だんだんと孤立していきます。
もちろん、現在はネット社会なので、社会に出なくてもある程度生きていくことはできます。
ネットであれば、ある程度価値観が合う人も簡単に見つけることができるので、そういう狭い社会があるから自分は大丈夫、と現状を正当化するようになります。
モラトリアムの変化
でもこのモラトリアムって、昔はあまり聞かなかった言葉だと思います。もともと法律用語ですし。
それがなぜこんなにもモラトリアムという言葉が使われるようになったのか、その時代背景を考えてみようと思います。
昔のモラトリアム
昔の社会人ってどんなイメージでしょうか。
僕は、飲みニケーション、スパルタ、とか、とにかく泥臭く上司の言うことを聞く、積極的なコミュニケーションというイメージです。
なんとなく、修行という言葉が適していそうです。
高度経済成長の中、まだそこまで科学技術が発展していない社会では、社会に通用する技術がものをいう世界でした。
そういう技術を継承することで初めて一人前になれる、
そのために修行は必要であり、
だから、修行こそは美徳である、
とされたのが昔の社会です。
昔は、一人前でないと大したお金ももらえず、社会から認められていないために、やりたいこともできない時代でした。
そのため、若者はいち早くこの半人前のモラトリアム期間を抜け出したいと思うようになります。
そのため、人一倍修行に励み、頑張って背伸びをして、古い価値観を継承しようとしてきたのです。
それが成功への一番の近道だったのですから、誰しも苦しみながらも、目標に対してギラギラしていたのです。
現代のモラトリアム
しかし現在はどうでしょうか。
大きく変わったのは、やはり科学技術です。
ネット社会になったことで、世界中の人といつでもどこからでもつながるようになったことで、働き方だけでなく様々なことが変わりました。
そんなネット社会では、スピードや効率がものをいう世界です。
必ずしも技術が必要というわけではならなくなってきました。
すぐに最新技術が変わってしまうこのご時世。
先代の技術やシステムを習得するだけでは、時代遅れとなってしまいます。
常に新しいこと、可能性を模索して、時代に即した価値観を自ら創り出していかないといけません。
そして、ネットによって若者にも様々な選択肢が与えられ、可能性が大きく広がってきました。
働き方も様々、暮らし方も様々。
そんな選択肢が有り余る社会です。
若者は決して怠けてモラトリアムを過ごしているわけではありません。
働くのが面倒くさいと思っている人もいることには間違いありませんが、だから社会に出るのを遅くしているというわけでもありません。
選択肢が多いからこそ、早い段階で自分が活躍できるフィールドを探さなければならなくなったのです。
自分が何者であり、
何が適しているのか、
自分はなぜ働きたいのか、
何を目指せば成功にたどり着くことができるのか、
ということをひたすら探している、いや、探さなければならなくなったのです。
つまり、現在のモラトリアムにおいての成功は、早くモラトリアムから脱出することではなく、モラトリアム期間を充実させることなのです。
これが、昔のモラトリアムを経験した人からは考えられず、この価値観の違いがジェネレーションギャップが生まれる原因になるのです。
モラトリアムは必要?
なんとなく、モラトリアムは悪いこと、というイメージがある人が多いと思います。
では、モラトリアムは必要なのでしょうか。
結論として僕は、モラトリアムという期間は必要だと思っています。
やはり先ほど言ったように、選択肢が多い社会ですから、自分のフィールドを選ばなければいけません。そのための準備期間は、やはり必要でしょう。
そして、昔と現代のモラトリアムで共通することもあると思っているからです。
それは、社会の中で自分という存在を確立させたいと思っていることです。
皆がやはり、自分が生きているという証を求めています。
マズローの欲求に関する理論がまさに的を射ているとは思います。
現代社会における一人前になるというゴールは、技術や能力、経験を身につけることではなく、社会の中で自分の存在意義を見つけて確立させることです。
誰しも自分の人生には納得したいですよね?
自分が納得できない人生なんて、やっぱり悲惨だと思いますよね。
そのため、アイデンティティの確立というのは、時間やお金よりも大事だという考え方も大きくなります。
悩んでいるということは恥ずかしいことではなく、学び直したり、新しい道を探すということも必要になります。
事実として、最も社会インフラが発達していると言われる北欧諸国では、高校を卒業してから一度働き、学びたいことを見つけてから大学に入学するという流れが主流になっています。
これができるのは、社会保障が充実しているために学費が安いからというのもありますが、
心理的モラトリアムはずっと続けてもいいという考え方があるからです。
自分が納得すれば早くモラトリアムから脱出してもいいし、でもいろんな可能性は考えるべき。
とにかく保障が充実しているので社会に適合するのが容易であるため、あとは心理的に自分自身に納得しているという充実感があればよいのです。
ですが、これは北欧での話。
日本はいまでも高学歴社会であり、決められた新卒入社に沿った学校教育、という昔の制度がいまだに残っています。
なので、北欧との大きな違いが、モラトリアムを自分で決められるかどうかという自由度にあります。
北欧では、充実した社会インフラによって自分で意思決定を早い段階ですることも可能ですし、遅くに意思決定しても社会に適合できないということはありません。
しかし日本では高学歴社会のために、よりよい大学に行くことでしか道は開かれません。
大学を卒業するタイミングが最も熟成された時期だとして、企業はそんな実を収穫するのです。
そのために学生も、企業に収穫される時期までは、精神的にも経済的にも、なにかに依存することができるのです。
こうして長引いたモラトリアムは、猶予期間という本来の意味を見失い、社会的な責任回避という意味になります。
もっといえば、北欧では主体性がなければ社会に適合することはできません。
しかし日本では、レールにさえ沿っていれば、受動的であっても社会に適合できるのです。
この受動的という部分が、自己という存在をかき消し、責任回避ということにつながるのです。
僕も昔、個別塾で働いていたことがあるのですが、よく生徒から聞かれました。
「なんで勉強しないといけないの?」
僕は答えます。
「いい大学に行かないと可能性が開かれない、そういう高学歴社会だからだよ」
生徒は答えます。
「え〜、でも大学って遊ぶために行くんじゃないの?」
たしかにと僕も思いました。
日本の大学は、入るのが困難ですが、出るのは簡単です。
しかし海外の大学は逆で、入るのはまだできますが、出るのがなによりも困難です。
ここにもやはり、主体性という言葉が関わってきます。
日本でもある意味では主体性はあるのかもしれません。
ですがそれは、学問的な教育ということではなく、サークル活動やバイトに対する主体性を指します。
しかし、それは目の前の快楽を得るためというのがほとんどです。北欧のような、本当の意味での社会経験ということからはかけ離れています。
このことを僕よりも7つ下の中学生から教えてもらったことは、いまでも忘れられません。
現実に甘んじている自分に気付かされた瞬間でした。
大学に入っておけば、あとはタイミングが来たら企業に入るだけだ、というのはやはり受動的です。
こうやって自分の人生を選択することを
仕方ないと先延ばしにして、
自分を正当化して、
自分を誤魔化し、
本当はやればできる、
でもいまは自分に自信がないから、
いまはこのままでいいや、
と現状維持バイアスがかかるのです。
なので僕は、主体性のある準備期間としてのモラトリアムはあるべきだとは思いますが、現実逃避という逃げのモラトリアムはよくないと思います。
モラトリアムからの脱出
なので僕も、逃げではなく、攻めのモラトリアムなら良いと思います。
しかしそんな人は少なく、現状に甘んじていて、先ほど言った3つの無に苛まれている人がほとんどだと思います。
それでは、そんな逃げのモラトリアムの特徴である、3つの無から脱出する方法を考えてみましょう。
できるだけいい大学に行く
書いているのも日本語なので、日本人向けではありますが、
やはり現段階としては、より良い大学に行くということが、モラトリアムから脱出するのにはいいのかもしれません。
なぜなら、学歴社会である日本はそんなに簡単に変わりませんし、そうであればいい大学の方が選択肢が確実に広がるからです。
いろんな可能性があるところに身を置く、というのがまずは優先度が高くなります。
主体的な経験をたくさんする
大学ではとにかく時間があります。
なので、自分がやりたいと思ったことにはとにかく挑戦しましょう。
自分には何が適しているのか、というのが最初からわかっている人はいません。
行動してみることで、それが自分に適しているのかがわかります。
とにかく可能性を広げるのが最優先です。
いろんなことに挑戦してみましょう。
その際に大切なことは、できないとわかっても落ち込まないこと。
これは自分には向いていなかったということがわかったのですから、消去法的に考えれば、自分には他のことが適しているということがわかったのです。
これで失敗する確率が減ったのですから、好意的にとらえましょう。
こうしてポジティブに挑戦していれば、無気力という第一段階のモラトリアムからは勝手に脱することができますよ。
自分を客観的に分析する
いろんなことに挑戦して可能性がわかってきたら、次は方針を決めなければなりません。
そのために、自分のことを誰よりも理解しなければいけません。
といっても、まぁ難しいですよね〜笑
自分のことがなによりもわからない人がほとんどだと思います。
僕もその一人です。
なので、自分を客観的に見るためには、他人の力を借りるのが一番です。
僕はブログという形で自分の現段階での考えをまとめておくことで、時間が経った時に客観的に自分を改めて確認しようと思っているので、こうして記事を思うままに書いています。
何に向いていると思うのか、ここがかなり重要です。
しかし、この決断ができずにずっと困っていると、だんだんと現実逃避という流れになってしまいます。
モラトリアムの期限を決める
なので、ここが重要です。
モラトリアムには、自分で期限を決めることが大切です。
僕も就活をしている時期は、まさにモラトリアムでしたが、そんな中である面接官に言われました。
「悩んでいい、でも期限は決めなさい」と。
おそらく、本当の意味での答えというのは見つけられません。
しかし、現段階での限られた情報の中での最適解、というのは見つけられるはずです。
それでいいんです。まずはその可能性を信じて、そこに一点集中してみるのが大切です。
それをしないと、いつまでたっても「自分は本当はできる」という理想だけにとらわれた人間になってしまうのです。
モラトリアムには主体性が必要です。
デッドライン効果と呼ばれるのですが、とにかく区切りをつけるのが大切です。
一度挑戦して、ダメならその可能性がわかった、それでいいじゃん
そういう考え方をできるようにしましょう。
ピンチはチャンス! 危機こそが自分を決める
あと大切なのは、危機というピンチこそが自分を決めるチャンスだということです。
昔の研究で、人がアイデンティティを確立するきっかけには、病気や失恋、死などの危機が多いと報告されています。
危機というのは、自分の人生におけるターニングポイントです。
深く思慮するのがこのタイミングです。
なので、自分と積極的に向き合うことができるのです。
このタイミングを逃してはいけません。
自分と向き合い、十分に悩んで結論を出す、そうやって悩んだ分だけ充実感が強くなるからです。
長嶋一茂さんも言っていました、ある日ベッドで死を想像してから、限りあるんだからなんとかなるさ精神でやってみようと思うようになった、と。
人生には限りがあります。
モラトリアムはお金や時間よりも大切と言いましたが、時間には限りがあります。
なので、限られた時間の中で主体的に行動をしていくことが大切になります。
そんな限られた時間の中で危機が起こるというのは、とんでもなく恵まれた偶然です。
そのチャンスこそ、掴まなければなりません。
大変な時期でくじけてしまいそうになりますが、人間の力はすごいです。
苦しい時こそ自分と向き合ってみてください。
まとめ
いかがでしたか。
もともとは猶予期間という意味のモラトリアムです。
しかし日本では、無気力、無関心、無責任という現実逃避としてのモラトリアムという言葉になっているのが現状です。
その原因が高学歴社会という遅れた社会制度にはありますが、それを変えるのはできませんよね。
なので、そんな閉ざされた社会の中でも、自ら主体的に動くこと、それこそがモラトリアムから脱出する唯一の方法なのです。
なんとなくモラトリアムを過ごすのではなく、自分の可能性を積極的に探す、希望に満ち溢れたモラトリアムにしたいですね!
それでは!